あらゆるものが溢れかえる時代である。
それでも、モノに携わることや、モノをつくることに本能的に惹かれる人はいる。
しかし現在のものづくりを取り巻く環境は、かつてとは大きく変わった。小さな工房や一人の作り手であっても、比較される相手は近所の店だけではない。インターネットを通じて、世界中の製品、価格、デザイン、技術と同じ場所に並べられる。
品質を安定させる。生産効率を高める。認知を広げる。広告を出す。物流を整える。顧客との接点を増やす。
こうした一つひとつを高い水準で実現しようとすれば、資本力の差はどうしても大きくなる。製品の品質を担保し、販促戦略で競争相手に先んじるためには、巨大な企業や資本の傘下に入ることが一つの前提条件であるかのようにすら見えることがある。
その意味では、ガレージや小さな工房から始まり、良いものを作り続けることで少しずつ成長していくという、かつてよく語られた製造業の成功物語は、以前ほど単純には描きにくくなっているのかもしれない。
だからといって、これからのものづくりに夢がないのかと言えば、決してそうではないと思う。
むしろ、モノが十分すぎるほど存在する時代になったからこそ、これまでとは違う問いが必要になっている。
なぜ、それをつくるのか。
なぜ、それを残すのか。
それは、人間の暮らしにどのような関係を生み出すのか。
生きることは、モノと関わることでもある。
服を着る。椅子に座る。器を使う。鞄を持つ。傘を差す。布団で眠る。道具を直す。使い終わったものを捨てる。あるいは誰かへ渡す。
人間の生活は、モノとの無数の関係によって形づくられている。
だからこそ、生き方そのものが暗中模索しているようにも見える現代では、モノを生み出す意味もまた、かつてないほど厳密に問い直されているのではないだろうか。
大量につくることが正しいのか。
新しいことが、そのまま進歩なのか。
古くなったら捨てるべきなのか。
効率の悪い技術は、消えてもよいのか。
機械で置き換えられる仕事には、もう価値がないのか。
こうした問いの先には、モノとの関わり方そのものに、新しい価値観をつくる余地がある。
19世紀から20世紀にかけては、新しいモノが登場することそのものが、人々の生活や価値観を大きく変えることがあった。
自動車が移動を変え、家電が家庭を変え、電話が距離を変え、コンピューターが仕事を変えた。
モノが先に現れ、そのモノによって人間の暮らし方や考え方が変わる。
そうした現象は、これからもなくならないだろう。
しかし、すでに多くのものが行き渡った社会では、以前ほど単純ではなくなる。
これからは、新しい価値観や考え方という大きな潮流の中から、「どのようなモノをつくるべきか」「どのモノを残すべきか」が決まっていく場面が増えるのではないか。
長く使う。
直して使う。
素材の個性を生かす。
必要以上につくらない。
地域に残る技術を、別の用途へつなぎ直す。
使うことで、その人だけのものになっていく。
こうした考え方が先にあり、その考え方を具体的な形として社会へ返すものが、製品になる。
そう考えると、もはや直接的に製造することだけが「ものづくり」ではない。
素材を見つけること。
残すべき技術を見極めること。
作り手同士をつなぐこと。
修理できる仕組みをつくること。
使い終わった後まで考えること。
そして、数えきれないほど存在するモノの中から、本当に残る価値のあるものを選び取るための考え方をつくること。
それらもまた、これからのものづくりの一部になるのではないだろうか。
「良いものをつくる」だけではなく、「何を良いものと考えるのか」をつくる。
ものづくりという概念そのものが、そこまで広がっていく可能性がある。
これは、つくり手の役割が小さくなるということではない。
むしろ逆である。
何でも作れる時代だからこそ、何を作らないのかを判断する力が必要になる。
技術が高度になるほど、どの技術を残すのかという判断が必要になる。
AIや機械が多くの工程を担えるようになるほど、人間には「何のためにつくるのか」という問いが残る。
時代が変わったことを嘆き、過去のものづくりを懐かしむことは簡単である。
しかし、過去と同じ条件が戻ってくることはない。
だからこそ、今ある技術、素材、知識、人材、そして新しい技術を使って、これまでとは違うものづくりの姿を考える必要がある。
もしかすると現在は、製造業にとって苦しい時代であると同時に、ものづくりという言葉そのものをもう一度定義できる、非常に面白い時代なのかもしれない。
新しいモノを増やすことだけが創造ではない。
残すものを選び、関係をつなぎ直し、新しい意味を与えることもまた創造である。
モノが溢れているからこそ、私たちはこれまで以上に、「なぜこれをつくるのか」と問うことができる。
そして、その問いから始まるものづくりには、これまでとは別の創造の喜びがあるように思う。
