「歴史哲学」と聞いて胸が熱くなる人は歴史オタクのなかでも、かなりの少数派でしょう。
歴史研究の分野では、歴史の大きな流れの中に思念や思想を読み取るという歴史哲学の視点は時代遅れか、邪道のような扱いを受けることが多いのです。
確かに和辻哲郎の『風土』に書かれた環境決定論だの、トインビーの循環史観だの、根拠の曖昧さときたら学生レベルでもわかるほど突っ込みどころの方が多いのですが、思考のシュミレーション方法として、一つの事象に対して解釈次第でいくらでも捉え方が変わるということ、発想の雄大さに大いに感銘を受けたものです。
一方で、近代歴史学の主流となっているのは、
一つ一つの歴史的事象の確実性を、残された物証から念入りに実証的に検証していく立場を重視するものです。資料調査の科学的手法も発達し、また統計学など他学問の成果なども取り込み、先行研究の蓄積も相当たまってきましたから、歴史学が明らかにできるミクロな事象の範囲は年々広がっているといえるでしょう。
それはそれでいいのですが、細かい事象に囚われすぎて、個々の研究が重箱の隅をつつくような視野狭窄に陥っているとの批判がある(あった)ことも事実です。
そんなことを鑑みつつ、20世紀前半までの歴史学者や哲学者は、今に比べて実におおらかにスケールの大きな言説を自由気ままに発表していました。当時は歴史事実についての情報が圧倒的に少なかったから、逆に限定的な情報の中で色々なシュミレーションを自在に張り巡らすことができたのでしょう。現代の歴史研究者の多くは、直感的なひらめきがあっても事実の裏付けだけでヘタすれば数年を費やすことになります。
歴史学が産んだスケールの大きな発想、
例えば唯物史観とか皇国史観とか歴史修正主義だの、普段は全然気に留めていないかもしれませんが、これらは良きにつけ悪しきにつけ、時として恐ろしいほど身の回りの生活を変えます。
■唯物史観→社会主義国家建設の思想的根拠
■皇国史観→日本におけるいわゆる戦前の全体主義体制の思想的根拠
■歴史修正主義→現代のネット右翼が主張する言説?の思想的根拠
上記のように、かつて「歴史」という学問には、世の中の生活までも変えてしまうくらいの思想的インパクトがあったことがあり、現代においてわかりやすい例でいうと、嫌韓・嫌中の思潮の根幹にはやはり歴史学の成果があるのです。
歴史研究を生活の糧にすることが出来た少数の恵まれた人々には是非、人生の大仕事のつもりで数年を歴史哲学の研究に費やして欲しいなあ、と思います。スケールの大きさゆえ、それこそ揚げ足をとる批判の嵐は免れようもありませんが、その仕事の価値は批判が大分収まった後世になってやっと分かってきます。
冒険心を持った研究者による、歴女とか歴オタを本当の意味で歴史好きにしてくれるような素敵な歴史哲学の著書が、専門書コーナーの片隅ではなく、いつか本屋の店頭に平積みで並んでくれればいいな〜。