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歴史と物語

歴史上の有名人や出来事の暗記より、どうやってそれら過去の歴史が現代に伝えられたのか、誰がどのように歴史事実とされるものを「事実らしく」伝えたのか、そして歴史的事実として伝承されたものがどのように現実世界にインパクトを与えたのか。

わかりやく三国志を例にとると、中国三国時代の歴史書『三国志』を著した陳寿は赤壁の戦いの描写をするとき、どのような史料を読み、伝聞を聞き、自身で解釈をして文としたのか、どの出来事を強調し何を省略したのか、という問題に対する興味、といった興味です。

歴史書の中で「事実らしく」伝えられたものが、実は事実では無いということが分かったことが、私たちが知っている知識の中にはたくさんあります。

例えば武蔵坊弁慶は五条大橋で牛若丸と戦ったことになっていますが、そのような出来事に対する信憑性のある裏付けは実のところ一切ありません。何しろこの人物は名前だけが伝わっているだけで、どのような出自でどのような活躍をしたかということが一切分かっていないのです。

大河ドラマを見ていれば、脚色というものが物語の面白さをどれだけ膨らますかわかりますが、まさか薙刀を振り回して義経に忠義を尽くす弁慶が、名前だけしか分かっていない人物だったとは多くの人は知らないでしょう。

でも、このような例こそが、ときとして物語は事実に優先するという、それこそ「歴史的事実」を雄弁に立証するものであるといえます。

義経や弁慶が死んだ200年も後に、弁慶が大活躍する物語を描いた『義経記』の作者に捏造の意識があったのかなかったのかは知りませんが、『義経記』の史料的信憑性が著しく低いことが分かった現代以降の日本の歴史物語においても、相変わらず弁慶は白頭巾を被って薙刀を振り回しています。

歴史を扱うとはいえ、今更物語の最重要人物の存在を消すことはことは、なにより「無粋」なわけですね。

つまり歴史というものは科学的な裏付け以上に、多くの人がこうであって欲しいという偶像が「事実らしさ」を超えて、もはや「事実」になるということです。

こういった現象が現実世界に与えるインパクト、なんて言い出すとうっかりタブーに触れてしまうことにもなりかねませんが、世界各地の宗教の伝記や、第二次世界大戦中の日本軍の所業に関する論争は、生きた実例であるといえます。

このように歴史と現代は密接に繋がっているわけで、これに対する関心が深まれば、懐古主義や単なる教養だけではなく、現代にとっていかに歴史に対する理解が重要なものかわかるでしょう。

歴史は単なる暗記科目でもインテリの教養でもありません。実用的では無いかもしれませんが、本質的なのです。一応文明社会に生きる現代人としては必要不可欠な養分であると思うのです。